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なぜ、“今”瞑想なのか


 今、私たちの社会は大きく変わろうとしています。21世紀に入って、パソコンやスマートフォンの普及によってボーダーレスなインターネット(オンライン)環境が急速に社会全体に浸透しました。また、AIやロボティクス、バイオテクノロジーなどの先進テクノロジーの研究開発も、近年、指数関数的な進展を見せています。そして2020年、新型コロナウイルス感染症(COVID19)の蔓延に端を発し、いよいよ世界規模で大きな産業構造の変革が起きつつあるのかもしれません。

 そうしたまさに「激動」の時代を生きる私たちに、「人としてよりよく生きる」ということや「自分自身をよく知っている」という当たり前のことが、これまで以上に切実に求められているように思われます。それは一言でいえば、「人間力」が求められているということかもしれません。では、これからの時代、これからの社会を生き抜く“人間力”とは何なのでしょう。そのキーファクターは、洞察(インサイト)や直感(インスピレーション)といった「気づく力」(マインドフルネス)なのではないかと私は思っています。
 

 私が(仏教関係者向けではなく)一般の方向けの瞑想指導を本格的に始めたのは、2017年1月でした。ある日たまたま乗った電車の中で見た光景に、強い違和感を覚えたのがきっかけでした。日々豊かな暮らしをしているはずの私たち日本人が、皆疲れていて心に余裕がなく、どうにも“幸せそうではない”のです。実際のところはわかりませんが、私には確かにそう見えました。そのときの体験が小さくも決定的なきっかけとなり、「日本人の心を豊かにしたい」、そのために何か出来ることをしたいということで、一般の方向けのマインドフルネス瞑想の指導を始めたわけです。その年(2017年)の9月には早々と「瞑想スタジオ」を開くことが出来、そのスタジオ(道場)で生徒さんお一人おひとりと丁寧に向き合わせて頂きました。そのおかげで、いくつかの確信めいた知見を得ることが出来、自然と、今の「そわかのレッスン」は出来上がりました。
 

「どうすれば、幸せに生きられるのだろう」


 今でこそ、これが自分の一生涯の「使命」だと確信をもっていますが、かつては生きる指針も定まらず、かなり“ふらふら”していました。あっちへ行ったりこっちへ行ったり、壁にぶつかったり穴に落っこちたり、随分みっともない目に遭っ妻や家族に迷惑をかけたり、周囲の人からバカにされたり・・・実に恥ずかしいかぎりですが、瞑想ならぬ“迷走”を大いにやっていたわけです。
 

 しかし、それでも「真理の探究」というものだけは、途中であきらめることがありませんでした。「どうすれば人間は、自分みたいな“問題だらけの人間”であっても、幸せに生きられるのだろう」ということだけは、徹底的に問い続けました。学生の頃に始まったこの探究は、企業人になっても続き、縁あって仏僧(お坊さん)というちょっと物騒なものになってしまうほど、いつの間にか自分のなかで大きなテーマになっていました。しまいには、お寺社会も離れてしまって自分で「瞑想スタジオ」などという珍奇なものを開いてしまったわけですから、やはり余程の“情熱”だったのかもしれません。そうして17、8年をかけまして、ようやく、ある時ふと私は「ああ、何もしてなかったんだ」と悟りました。それは(予想外に)あまりにも“あっさりした体験”だったのですが、私には十分すぎるほどの決定的な気づきだったようで、その後いくつかの確信を得ることになったわけです。


 私は今、毎日“爽やかに”過ごせています。もちろん、かつて抱えていたすべての問題・課題がきれいさっぱり無くなって、何でも出来る“理想の自分”になれたわけではありません。誰もが憧れる“リッチな暮らし”を手に入れたわけでもありません。相変わらず、出来ないことは“山のように”あります(苦笑)。しかし、不器用なこのままの自分も「捨てたものじゃないな」という気はしています。

 自分の全力が足りない時には、絶妙なタイミングで家族や周囲の人たちが力を貸してくれ、時には奇跡のようなことだって平気で起こってしまいます。試練はチャンスであり必ず乗り越えられる、乗り越えたら「すべてがもっとよくなる」といったような感覚もあります。日常のほんの些細な出来事のなかに幸せや“奇跡”を見つけては、「ほんとうに恵まれているなあ」と言って妻や息子と笑い合ったりしています。これは、至らないところが山ほどある“問題だらけの自分”だからこそ味わえる「幸せ」なんだと思います。
 

人生が変わる“瞑想のチカラ”


 なぜ、こんなことをお話ししたのかと言うと、巷でひそかに瞑想ブームが起き、まことしやかに様々な瞑想の効果が謳われていますが、本当の本当に瞑想で人生が変わるのだということ、私のようにネガティブだった人間の心でも「前向き」になるのだということを、本気でお伝えしたかったからです。もちろん、これはほんの一例にすぎません。まだまだ信じてはもらえないかもしれませんが、たしかに瞑想には私たちの「人生を変えるチカラ」があると思うのです。最後に、少しだけそのことを“説明”させて頂きます。
 

 瞑想とは、普段私たちが認識出来ていない事実・事象を、あらためて認識しようとする試み(あるいは、無意識を意識化する試み)です。だからこそ、「気づく力」を鍛えるトレーニングになりえるわけです。

 瞑想と〈気づき〉とは切っても切り離せない関係にあります。しかし、だからといって〈気づき〉を、何か特別なもののように考えるのは見当違いでしょう。たとえ瞑想していない時であろうとも(そもそも瞑想を知らない人であったとしても)、人間は常日頃からさまざまな出来事を通じて〈気づき〉を得ているからです。

 〈気づき〉を得ると、脳のなかで「認識」(識別や価値判断など)のパターンが変化します。〈気づき〉という現象によって、未使用または使用頻度の少ない脳の神経細胞や細胞同士の繋がり(神経回路)などが活性化するためです。その〈気づき〉の対象は、常に「あるがままの事実(=真実)」です。思い込みや偏見はもちろんのこと、いかなる知識・見識もそこには入り込む余地がありません。ただ、「あるがまま」に「気づく」だけです。それ以上でもそれ以下でもありません。

 「あるがまま」とは事実そのものであり、「思い込み」とは事実誤認です。したがって、「あるがまま」に気が付くと「思い込み」は是正されていくほかありません。そうして、認識(作用)が「事実に即して働くようになる」ので、現実との間のさまざまな“摩擦”や“軋轢”は解消され、一つ一つの発想も前向きになっていくわけです。

 人生は、さまざまな「体験」の連続ですが。そのひとつひとつの体験の味付けや色味を決めているのは、他でもないこの個々人の「認識(作用)」です。つまり、私たちが常日頃体験している「現実」を作り出しているのは、私たちの頭や身体のなかに生起する多種多様な感覚知覚をすべからく統括している「認識機能」だということです。ですから、認識が変われば、人生は変わるのです。そして、瞑想(自己洞察)を通じて、自己を知り、人間を知り、人生を知っていくなかで、認識が変わる。したがって、瞑想によって人生は変わりうるということです。
 

不透明な時だからこそ「確かなもの」が求められる


 こうした知見を、私は瞑想(自己洞察)を通じて会得していきました。今の私にとっては“揺るぎないもの”で“とても自然なこと”なのですが、こうした知見や洞察力のおかげで、少なからずこうして皆さんお一人おひとりの人生の“抜苦与楽”をお手伝いさせて頂けているわけなのです。それが「そわかのレッスン」です。きっと私という人間は、これからも足元の幸せを大切に一日一日を愉しみながら、そわかのレッスンを通じて「確かなもの」をお伝えして行くことでしょう。お一人でも多くの方に、その方なりの確かな知見を得て頂き、ご自身の“道”を自由に爽やかに生きて頂きたいからです。


 ついでに少々お節介を申せば、人生という道には、もとより「迷う」ことなどありえません。迷うような「別な道」など、あろうはずがないのです。どんなに迷路のように曲がりくねって見える道も、またどんなに険しく苦しく通り難い道も、実際には“まっすぐ一筋に通った”素晴らしい一本道です。本来それ以上もそれ以下もなく、したがって無上(=最高)の道です。ですから、このような激しく揺れる社会の中で、たとえ人生の指針を失うようなことがあったとしても、「人生という道は、元より“まっすぐ”なのだ」ということを思い出していただき、少しでも前向きな方向へと進んでいただけたらと願います。まことに微力ながら一心に、皆さんへ真の「マインドフルネス」をお伝えし、より一層広く“まっすぐ”にこの知見を活かして行ければと願っております。


 
 そわか合掌


 2020年5月吉日
 (瞑想スタジオそわか・入山文章)

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